②ある作曲家は、こう弾かれるべきである
「そんなのモーツァルトじゃない」とか「シューマンっぽくない」とか、
そんな決めつけ方の出来る人は、世界中を探しても見つからない。
多くの作曲家は、とっくの昔に故人となっているのだから。
“天衣無縫”で知られるモーツァルトが自分の死後、何百年も経って、
生地より遥かに離れた遠いアジアの片隅で、自作が愛奏されるのを天国で耳にした時、
果たして何と言うであろうか?
喜びこそすれ、否定など絶対にしない筈である。
では好き勝手に弾けば、音楽が理解出来るかと言うと、それは否定せざるを得ない。
昨今の音大でも「先生の力を借りずに自分で曲を仕上げられない」と嘆いている学生がいると聞き及び、
暗澹たる思いがするのは、その悩みに対する解答の仕方についてである。
何も心配する事などない。今まで、がむしゃらに弾く事しか考えてこなかった者が、
色々な視点から音楽を見つめ直し、新たな捉え方を手に入れれば、
自分で曲を仕上げられるようにもなろうと言うもの。
アカデミックの本髄はこれであり、ようやく、その入り口に立ったばかりの学生に対して、
既に完成されていなければならないかのような接し方しか出来ないのは、
教える側にも何のために、種々の学科が存在するのか、分かっていないからである。
極論だが、自分の演奏に役立つ学問でなければ、何の意味も持たない事を肝に命じておこう。
今も記した事の一端として、助言の中でも詳述するが、楽譜にはいくつかの読み方がある。
バルトークが民謡採集をした際、心踊らせながらも淡々と分類法を試みたのと同じく、
我々も種々の読み方に従い、無理にでも楽譜の内容をまずは当てはめて見たらいい。
膨大な採集の結果、バルトークが彼独自の作曲法を編み出したのに対して、我々は、
かなり容易に音楽を理解できる恩恵を与えてもらえるいっぽう、
どうしても例外的と呼べる部分も見つけられる。
これこそ、すなわち作曲家の個性となる。ただ注意してほしいのは、
作品が内包している特質を感じる必要は大いにあるものの、
“演奏家が作品の個性を引き出している”などと考えるのは、痴がましいと言うこと。
演奏後の鳴りやまぬ拍手に対してクララ・ハスキルが「素晴らしいのは私ではなく、
モーツァルトが素晴らしいのです」と応えたのは、誠に的を得た話であり、
ただ拍手は更に大きくなったと言われている。
少し話を広げるが、聞かれている側にも「どういう心境で作曲家が、この作品を書いたのか」
と尋ねて知りたがる人がいる。
作曲の動機など大した問題ではない。第一、言葉で説明が付くのなら音楽にする必要がなくなってしまう。
むしろ作曲家は、情感や情景を音で分かりやすく表していると考える方が自然というもの。
マーラーがブルーノ・ワルターに言った「君は、ここの風景をそんなに見る必要はない。
なぜなら私が既に音楽として書いているのだから」との言葉も、また名優アンソニー・ホプキンスの
「私に会いたかったら、私の出ている映画を見に来てください」と言う言葉のどちらにも、
彼らの心意気が痛いほど感じられる。
“心境”と言えば聞こえも良いが、考えようによっては、
作曲家の私生活が知りたいと言っているのと同じわけで、
要するに、ご自分が曲を理解できない原因をすり替えているだけの話。
そう思い込んでいるのなら考えを改めて頂きたいし、偏見も疑念もなく音楽を聞いているのにも関わらず、
やっぱり分からなければ、ほとんどは演奏する側の問題と言える。
既に聞き覚えのある曲でも、いざ譜読みを始める際はCDなど録音資料を参考にすべきではないし、
知らない曲なら尚更のこと。
とにかく誰にも頼らず、楽譜を丹念に読み解き、
曲について「ああ、そう言う仕組みだったのか」と知ったり、
「ここは琴線に触れる」と確信する過程にこそ大変な意味がある。
たとえ結果として誰かの演奏と似ていたとしても当然ながら、それは決して真似ではない。
まして、オリジナルな解釈が確立できていたとすれば、大いに自負すべきだし、人にも必ず伝わる。
CDと同じように、ただ弾いて、「作曲家は、どういう心境で?」などと愚問を浴びせられても自業自得と心得、
大いに反省すべきである。
もちろんCDの音を聴いただけで、どういう音の出しかたをしているか、
言ってみれば“他人の奏法を盗める”のなら、大した耳の持ち主と言える。
貪欲に何かを吸収しようとするのは、かのJ.S.バッハが仕事を4週間も休んで、約400kmもの距離を歩き、
当時の大オルガニストであったブクステフーデの演奏をはるばる聞きに行ったのと同じく、
若い芸術家の常として恥じる事では全くない。
ただ、それをどのぐらい咀嚼できるかに多くの鍵があるのであり、
最初から誰かの演奏を模倣するのとは、明らかに違う次元の話である。
むしろ楽譜を入念に読む事で、どうにもならないほどの疑問が生じているからこそ、
誰かの演奏も吸収できるのであり畢竟、その人なりの王道が見つけられると思う。
バロック音楽を集大成した彼を称えた
「バッハはバッハ(小川―Bach―)ではなくメール(大海―Meer―)である」なるベートーベンの言葉は、
誠に“言い得て妙”である。
以前、ベートーヴェンの協奏曲を本番で弾くため準備していたとき、
トリルの締めくくり方が、どうしても不自然に感じられてしまい、
自分にしては珍しく、つい何種類かのCDを聞いて見ることにした。
案の定、ベートーヴェンの書いた通りに演奏しているピアニストなど誰もいない。
それでも「もしや」と思い立ち、ドイツの巨匠ルドルフ・ゼルキンのCDを掛けてみたところ、
なんと楽譜どおりに弾いているではないか。
私の得心が行ったのは、たぶんゼルキン氏ご本人に
「どうして、こういう音型になるのでしょう」と尋ねてみても、
「そう書いてあるのだから、そのまま弾けば良いではないか」と返されることが、
自ずと伝わってくるような気がしたためである。
すべてを会得した上でなくても、時として作曲家の指定したままに演奏するのも、
また一興かと、訳もなくホッとしてしまった次第。
ついでながら、彫刻家ロダンの話も紹介しておきたい。
たぶん本物ではなかったのであろう当時のアカデミズムに疑問を感じていたロダンは、
来る日も来る日もルーブル美術館に通い続け、何百年も昔に先人が遺した作品をひたすら模造していたのだそう。
ある日、両手で持っていた紙を左右から真ん中に近づけたところ、
紙が自分の方に湾曲しながら盛り上がって来るのを見て
「そうか。彫刻も内面から湧き上がって来るような力がなければいけない」と閃き、開眼するのである。
言われて見れば、そのとおりなのかも知れないが、「ふーん」と思うだけで実感も湧かなければ、
出来そうな気がしないのも、それまでにロダンの重ねていた努力が常人の及ばないものだったからなのは、
さすがに見当が付く。
恥ずかしながら、私にも同じような覚えがある。
大学院を出たばかりで仕事もなく、暇をもて余していた自分は、なぜか理由もなく、
毎日バッハの作品ばかりをひたすら弾き続けていた。
何ヵ月か経ったある日、ロダンよろしく私の得た閃き、
それは「このバッハの弾きかたじゃ、つまらない」だった。
「どうすれば、もっと面白く弾けるのだろう」そして
「楽しく弾こうと考える自分をバッハが怒る訳がない」と言う確信が、
その後の私の演奏を大きく変える契機となった。
「“バッハは楽しく弾くべきである”と決めつけているじゃないか」と絡みたくなった諸兄諸姉の皆さん、
落ち着いて頂きたい。
私はバッハに限らず「すべての作曲家が楽しく弾かれるべき」と普遍的な真理を、
ほんのわずかながら悟ったのである。
ではもうひとつ。短調で書かれた曲の場合、どうするか。
表裏一体。楽しく弾こうとする反動をそのまま、ぶつければ良いのである。
これが詭弁でも何でもないことは、モーツァルトの作品を弾いて見れば理解できる。
ほとんどの作品が長調で始められる彼の曲に現れる短調の部分、
そのゾッとするような心に染み込む美しさは言葉で表せる訳もなく、
この佳境を狙ってモーツァルトは長調を選んでいるのではないかとすら思える。
余談の余談だが、音楽には疎遠な私の親友と、かつて夜、箱根の山をドライブした時のこと。
渋滞に見舞われ、
カーステレオで聞いていたモーツァルトのピアノ協奏曲の緩徐楽章が長調で書かれていたにも関わらず、
彼曰く「こんな暗い曲はやめて、別のにしない?」と言われたのには同感したし、新鮮な驚きもあった。
言うまでもなく教える側も、つい自分の要望を生徒に押しつけそうになるものの「どうして?」と訊かれ、
応えられないのであれば、決して無理強いすべきではない。
海外から来られた教授より「なぜ、そう言う弾きかたをするのか」と尋ねられた際、
「なんとなく」ではなく、きちんとした理由を説明すれば、まず却下されない。
彼らが生徒の自主性をいかに重んじているかの現れであるし、ましてや教える側の我々が訳もなく、
生徒に解釈を押し付けるような暴挙をしてはいけないのである。
ひたすら楽譜と謙虚に向き合うこと。フルトヴェングラーの言葉を借りるまでもなく
「答えはいつも、楽譜の中に記されている」のだから。
続く
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