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日本人がピアノと仲良くなるために遺しておきたい言の葉

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[序章] あるピアニストの述懐

遺しておきたい言の葉。つまり“遺言”である。
ありがたい事に、まだ元気でいられるうち、なぜ“遺言”を認めたくなったか。

契機となったのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災。

被害に遭われた現地の復興を心から祈るいっぽう、では自分が何のために生きている、
あるいは幸運にも生かされているのかをどうしても考えずにはいられなかった。

物質的な豊かさと、精神的な豊かさが相反するものだとは決して言わないが、
それでも私に取って、遺しておきたい本当に大切なものは何なのか?
 
自問自答を繰り返し、他に取り柄のない音楽のみが天職なのは重々承知の上、
私ごときの演奏は、聞かれた方の記憶にのみ留めていただければ充分と思え、
むしろ別の何か、地震に見舞われようが、津波に呑まれようが、
消えないものはピアノについてのメソッドしかないと確信。

指摘を待つまでもなく、この“遺言”をすべて、伝えておきたい言葉―伝言―と介して頂いても、
何かのヒントになる言葉―助言―と捉えて頂いても構わない。

もっと言ってしまうと、「ピアノをやめてしまおうか」とまで思い悩んでいる人にとっては
金言になるかも知れないし、アバウトにピアノを弾いている人にとっては苦言となるかも知れない。

ただ、今は万感の思いを籠め、“遺言”と銘打っておく。

では次章より掲げる“遺言”が、効果的かつ興味深く読んでいただけるよう願いを込め、
まずは世の中で一般に良く言われがちな指摘を四つ紹介する。
くれぐれも惑わされないよう提言しておきたい。

①ピアノには正しい弾きかたなんて存在しない

これは本当に限られた、いわゆる“天才”と認められる人たちにのみ当てはまる考え方である。

“天才”なる言葉は、そうであるにもかかわらず、彼らが社会的に理解されず、
不当な扱いをされている際にのみ、効を奏する。

ましてや私を含め凡庸な才のみ持ち合わせた者が、彼らと同じ指導法を受けたところで、
まともに弾けるようにならないのは、非をみるより明らかである。
 
“顰みにならう”の格言どおり、我々が訳も分からず、彼ら天才の真似をしたところで、混乱するばかり。
まずは基本的な奏法を知り、身に付けること。
その上で特殊な弾きかたも存在するのを、あくまで自分で見つけるべきである。

私にしたところで、永い演奏経験を重ねて来たなかで、それこそギリギリの取捨選択を迫られ、
得た奏法もある。

とすると、正しい奏法なんて、確かに存在しないのかも知れない。
 
ただ、それを逆手に取って基本も教えず、「あとはご自由に」と言う考え方は、いたって無責任である。

 
たとえば「あの先生に教わった弟子は、みんな同じ演奏をする」などと心ない発言をする人たち。
彼らは自分のメトッドを持っていないため僻んでいるだけなのが、お分かり頂けるであろうか。

 
イタリアやドイツ、それにフランスでも名車と呼ばれる車は、何回モデルチェンジを重ねても、
一度見ただけで、その会社のものだと必ず分かる。
 
いっぽう「変わらぬ味を求めて」と銘打ちながら、どんどん味を変えていることに
「食べているお客様は気づかない」と漏らす老舗の職人が、どれほど切磋琢磨されていることか。

 
技術に普遍性がなければ、変化しているにも関わらず、それに気づかせないなどという至芸は、
絶対に不可能と思い知らされる話である。

続く

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